写メール日記
PHOTO DIARY
-
2023
2
05/11[Thu]
06:15政変
おはようございます♪
歴史シリーズ
久坂玄瑞編Part22
孝明天皇は、だんだんと焦り始めていました。
身に覚えのない勅令が出されている。
「天皇陛下に逆らうんか!」と、頼んでもいないのに勝手な行動をする者がいる。
なぜこんなことが?
天皇は、悩みました。実は、長州藩と息の合う攘夷過激派の公卿たちが、勅令を出していたのです。
その結果、上洛した将軍家茂が実行不可能な攘夷の約束をさせられたり、孝明天皇の意図だとして外国船砲撃が行われたり、大変な事態に陥っていました。
孝明天皇の深い悩みも知らず、久坂は久留米藩の真木和泉とともに、ある計画を画策していました。
「大和行幸」です。
天皇自ら神武天皇陵、春日社(春日大社)、伊勢神宮に参拝して攘夷祈願を行い、「攘夷親征(攘夷のために天皇自ら戦う)」の機運を盛り上げようという計画でした。
これを受けて、幕府はプレッシャーを感じるはずでした。
天皇自ら出てくる前に攘夷をせねば、政権を譲ることになるかもしれない、そう思うに違いない、と久坂と真木は考えたわけです。
この読みは、正しいと言えます。
幕政の中心にいた松平春嶽は、この時期、こう考えています。
「このままでは政治の命令が幕府と朝廷の二カ所から出ることになってしまう。朝廷から幕府に政権委任してもらうか、幕府が朝廷に政権を返すか選び、命令系統を統一せねばならない。さもなければ国が破綻しかねない!」
春嶽は家茂に政権放棄を迫り、逼塞処分を受けることになります。
もし久坂らの狙い通り大和行幸が実行に移されたら?
幕府も春嶽の言葉通り、そこで政権を返上したかもしれません。しかし、他ならぬ孝明天皇の我慢が限界に達しました。
天皇は、信頼出来る側近の中川宮(久邇宮朝彦親王)に嘆きます。
「誰ぞ、武で君側の奸をのぞく者はおらんだろうか……」
この思いが、長州藩に敵意を抱く薩摩藩と、京都守護職・会津藩に伝わりました。
天皇の側近、長州藩の突出に不快感を抱く諸藩(藩主が京都所司代をつとめた淀藩、徳島藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩)が結託し、アンチ長州包囲網が形成されてゆきます。
こうして文久3年(1863年)8月18日深夜、薩摩と会津の兵に警護された御所から、以下の勅旨が出されました。
・大和行幸の延期
・国事参事、国事寄人の廃止
・三条実美以下攘夷派公卿20名の参内禁止長州藩は、御所堺町御門の警備任務を解かれ、都から撤退するほかありませんでした。
「既に西へ帰るよう決められてしもうた。わしらの藩の勤王の道は、これでもう終わりなんじゃ……」
久坂はそう嘆きました。
長州藩は2千人の兵士と、<a href="https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2023/02/17/111776">三条実美</a>ら失脚した7人の公卿とともに都を追われるほかありません。
勅をふりかざして政局をリードしてきた長州藩が、勅によって追い払われてしまったのです。
彼は、妻の文にこの事件をこう伝えました。
「18日に、いかにも悔しいことだが、悪人どもが禁裏を包囲して、おまけに堺町御門の警備を解いてしもうたんじゃ。けしからん、憎たらしいこと、本当に残念なことじゃ」
この「八月十八日の政変」は、公武合体派が長州藩を追い落とした事件とされていますが、その背後には孝明天皇の意志があったことは重要です。久坂には認められないことだったでしょうが。
どうもこのあたり、久坂はじめ尊王攘夷派は、孝明天皇を意志ある生身の人間というより、自分たちの言動を後押ししてくれる便利な概念として見ていたのではないかな、と思わなくもありません。
続きはまた明日
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
3
05/10[Wed]
20:29〇〇スポット
本日もご予約、お誘いありがとうございました
最初から最後まで
激しくてそして変態で楽しい時間を
皆様と過ごせて感謝感謝です
皆様には癒しや楽しい時間を
味わって頂き、帰り際に
「あ、なんか元気でたな」
と、ふと感じてもらえる
そんなパワースポットのような
存在になれたらと思っています(*´`)皆様やスタッフさんの意見を聞きながら
未熟ながらも頑張っていけたら……と(*´`)
写メ日記ではわたしがどんな子なのか、
ちょっとでも分かって頂けたらと思うので更新も楽しみにしてくださいね
本日は本当に本当に
ありがとうございました(*´ ? `*)ウフフ?
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
1
05/10[Wed]
06:15なぜこだわるの?
おはようございます♪
歴史シリーズ再開しました!
GWでちょぴりさぼってました(笑)
久坂玄瑞編Part21
何か気になってきた方がいると思います。
「攘夷でアピールするっていうけど、当時の人は攘夷のデメリットに気づかないの? そんなにノリノリだったの?」
そうではありません。
「攘夷なんて野蛮、最低最悪」
と冷静に考えている人もいました。
「攘夷をダシにして自己アピールをしている」
と喝破している者もいました。
幕臣の江間政発は「幕末の攘夷とは、反対派を叩き潰すための看板である」と回想。
五代友厚は「攘夷なんてしていたら、清やインドのように国が駄目になる」と指摘しております。
当時、会津藩の家老であった山川浩となると、さらに辛辣極まりありません。
「当時の京都では、脱藩浪士が外国人をケダモノ扱いして、やたらとうるさく鎖国攘夷だと叫んでいたけど、そんなものには一つとして確固たる定見なんてない。酷い奴は、元寇の時の神風を期待するオカルトレベルだった」
それが、山川の指摘です。
山川は尊王攘夷派に苦しめられた会津藩士であり、しかも性格的に思った事をズバズバ言うタイプですので、そこは差し引いたほうがよいかもしれませんが。のちに長州藩の盟友となる薩摩藩は、島津斉彬よりさらに前の、斉興の代で攘夷は無理であると悟っておりました。
外国人殺傷事件「生麦事件」の結果、薩英戦争に突入してしまいますが、そのあとは完全に攘夷からは距離を置き、むしろイギリスと手を組んでいます。
確かに戦争で打撃は受けた。
しかし、貿易のチャンスを得たメリットは大きいもので、WIN-WINの関係を築くわけです。
薩摩藩の考え方は合理的です。
たしかに藩のトップであった島津久光は、異母兄の斉彬とは異なり、西洋の文物を好んでいたわけではなく、明治維新後も亡くなるまで髷を結っていたほどです。
そうした好悪の感情と、藩の利益を切り離すことができました。
続きはまた明日
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
1
05/09[Tue]
18:16癒し系?(笑)GW明けで久しぶりの出勤
本日もお誘いありがとうございます
GW明けのイチャイチャや
変態プレイ
短い時間の中でちょっとした
息抜きになってくれてたら
とても嬉しいです(*´`)
いつも皆様の活力で私は元気を
もらっています
皆様もそうだったらいいな(≧∇≦*)
癒し系になりたい美玲です(笑)
そして明日もご予約ありがとうございます♪
明日も元気に出勤しますので
お誘いお待ちしておりますね
本日は本当に本当に
ありがとうございました
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
0
05/09[Tue]
10:39まぁるい〇〇
おはようございます
GW明け……
食べ過ぎで少し丸くなった美玲です(p_q*)シクシク
皆様はどんなGWを過ごしましたか?
旅行された方や、
お仕事で忙しくされた方、
そんな疲れを一緒にエロエロで
発散しましょ
本日12時〜16時半
ご予約、お誘いお待ちしております(≧∇≦*)
ご予約の方、お時間まであと少し
お気をつけお越しくださいね(*´`)
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
2
05/03[Wed]
06:15暴走モード
おはようございます♪
歴史シリーズ
久坂玄瑞編Part20
文久2年(1862年)。
このままでは薩摩や会津に負けてしまうと、長州藩過激派は焦りました。もう、こうなったら、さらなる攘夷アピールしかないんじゃ! そんな暴走状態に陥ってしまったのです。
外国公使暗殺(計画のみで未遂)。
イギリス公使館焼き討ち。徳川家茂が上洛すると、根回ししてしつこく攘夷を誓うように画策します。
下関からは、通りがかる外国船を片っ端から砲撃。民間商船でも容赦しなかったため、国際法に照らしてもこれは大問題です。
かなりの危険行為で、外国に戦争を仕掛けられてもおかしくはありません。
こうした無謀な「小攘夷」(短絡的なヘイトクライム)は、国家を危険にさらすだけの愚行とも言えます。
案の定、アメリカとフランスから逆襲を受け、長州藩はとんでもない状況に陥ります。
こうした状況を打破するために、高杉晋作が急遽、結成したのが「奇兵隊」でした。
「奇兵隊」は武士以外の起用した隊であることから、高杉や久坂は身分にとらわれない平等の意識があった、とされています。
この点については保留が必要です。
武士以外が隊員とされたのは人員不足によるものでした。高杉にせよ、久坂にせよ、生涯武士としての誇りを持ち続けていました。
当時の武士としては「わしら武士が、民を率いてこそじゃ」という思いがありました。
これは藩を問わず、そんなものでした。
現代的な身分平等思想があったかどうかは、別の話です。
そして、この奇兵隊。
外国勢との戦争が終わるとさらに行動を始めます。関門海峡を越えて、さらなる攘夷のために、小倉藩領にまで砲台を築き始めたのです。
長州藩に巻き込まれた小倉藩とすれば、砲台建設はたまったものではありません。勝手に砲撃されて外国船に攻撃されたらば、被害を被ってしまいます。
当然ですが、小倉藩は「止めてくれ」と訴えました。
が、長州藩は取り合いません。
「攘夷に協力しないとは、不甲斐ない連中だ。勅を得て砲台建設の許可を、朝廷から得よう」
かくして、長州藩過激派の意を汲む公卿により、小倉藩に攘夷を命じる勅令が出されてしまうのです。
あまりの暴走に驚いた幕府からの詰問使が、長州藩にやって来ます。
その使者は、斬殺されてしまいました。
続きはまた明日
それでは皆様、
素敵なGWを
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
2
05/02[Tue]
06:15奉勅攘夷
おはようございます♪
歴史シリーズ
久坂玄瑞編Part19
このころ、長州藩にとっては甚だおもしろくないことが起こっていました。
文久2年(1862年)、島津久光が兵を率いて上洛。
西郷隆盛が「無謀」だと反対した計画ですが、幕末でこれほどインパクトを与える行動を与えた例は他にありません
京都を抑えた久光は、大きな圧迫感と存在感でもって、幕末政治の表舞台に立ちます。
この上洛により、元一橋派の一橋慶喜、松平春嶽も政界に復帰しました。
久光の上洛の直後に「寺田屋事件(寺田屋騒動)」が起こります。
この事件で久光は【自分の藩の者であっても、朝廷に背く者は断固処理する】ことを示したのです。
孝明天皇はじめ朝廷の久光に対する評価は、この果断によって一気に高まりました。
同年、久光の幕政改革案によって設置された京都守護職として、会津藩主・松平容保が上洛。苦しい状況の中、再三辞退した挙げ句、ついに上洛することになってしまいました。
容保は、政治的には愚直なところがあり、同時に誠意あふれる性格です。孝明天皇は、生真面目な容保のことを、ことのほか気に入りました。
が、これは、長州藩にとっては大変おもしろくありません。
朝廷にとってナンバーワンは自分たちだったのに、薩摩と会津が割り込んできたように思えたのです。
こうなったら、さらなる過激な攘夷を行って自己アピールするしかない!
かくして藩をあげて、勅命を奉じて攘夷をすること、すなわち「奉勅攘夷」がモットーになりました。
今日はここまで
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
1
05/01[Mon]
20:19ご縁のある出会い方本日もアツいアツい1日を
ありがとうございます♪
終始笑顔で過ごすことができ、
感謝、感謝です最近は本当に歴史のお話を
してくれる方が多く
私の方がいつも楽しませて頂いてます
歴史繋がりで頂いたご縁。永く続きますように、私も頑張りますので
これからもよろしくお願い致します
本日は本当に本当にありがとうございました
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
1
04/28[Fri]
11:27精気吸い取っちゃうこんにちわ
今日も12時〜16時半
出勤致します
早い方は明日からGW突入ですね
お休み前に美玲と一緒に
イチャイチャらぶらぶしましょ
貴方の活力になれたら
嬉しいです
美玲も精気吸い取って
活力にしちゃうけど(笑)
それではご予約、お誘い
お待ちしておりますね(*´`)
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
1
04/28[Fri]
06:15正解≠正義おはようございます
歴史シリーズ
久坂玄瑞編Part18
航海遠路策内容を要約すると、以下の通りです。
・朝廷は鎖国攘夷政策を改めて、そのことをふまえて幕府に命令を下す
・公武合体、一丸となって富国強兵を促進
・その上で、海外雄飛を目指そうこれを読むと、多くの方は、こう思うのではないでしょうか。
『悪くないじゃん! いいね、現実的だね』
実際この考え方は、長井一人のものではなく、当時合理的な考えを抱いている人ならば、似たような結論に至っておりました。
明治政府にしたって、幕府が消滅した代わりに新政府が行うようになったわけで、ほぼ同じことをしているわけです。
つまりは、正解、正論なのです。
幕府は当然賛成しましたし、孝明天皇も賛意を示しました。
孝明天皇は、妹・和宮の夫となった徳川家茂(徳川慶福)が上洛した際、彼のことをえらく気に入りました。
妹のためにも、幕府と手をとって歩んでいこうと思ったとしても、何ら不思議はないわけです。
しかし、久坂ら松陰の門下生にすれば納得できません。
「松陰先生は幕府の開国に反対して、幕府によって殺されてしまった。こんな策が受け入れられたら、先生の死が無意味になってしまう!」
そんな彼らの反発を買った長井は、文久3年(1863年)、尊王攘夷派から憎まれた挙句の果てに、切腹へと追い込まれてしまうのでした。
続きはまた明日
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲