写メール日記
PHOTO DIARY
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2023
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05/16[Tue]
11:38性交解禁日
こんにちわ
今日も昨日と同じく、
全く駐車場が空いてなく……
ぐるぐる回ってやっと停めれましたε-(´∀`*)ホッ
お題で、今日は性交解禁日って
書いてあるの見たんですが、
初めてしりました(ΦωΦ+)ホホゥ....
ということで溜まったモノを
一緒にぶちまけちゃいましょ
12時〜16時半
ご予約、お誘いお待ちしておりますね
ご予約頂いてる方、お時間まであと少し……
気をつけてお越しくださいね
ニューヒロシマ
美玲
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2023
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05/16[Tue]
06:15上関三士
おはようございます♪
歴史シリーズ
久坂玄瑞編Part25
単に藩士が亡くなった――というわけではなく、航海術に長けた者が亡くなってしまい、薩摩藩は困ることになります。
藩内はむろん、久光も激怒。
しかし、ここで怒りを表明すれば、密貿易の件が明るみに出かねません。耐えるほかありませんでした。
そんな最中、別の事件が発生します。
元治元年(1864年)2月、周布・別府浦に停泊中の、薩摩商船が砲撃を受けて沈没したのです。
しかも、貿易商であった船主の姿は消えていました。
それから数日後――。
大阪に、船主の首が晒されました。斬奸状によれば【外国との密貿易を行い天皇の意に背いたため、成敗した】とのことです。
首の前では、長州藩士の山本誠一郎と水野精一が切腹しており、発見時には事切れておりました。さらにそのあと、高橋利兵衛という男が、周布の寺で切腹しているのが発見されます。
商船砲撃および船主殺害は、この3名の仕業でした。
後に「上関三士」として、靖国神社に合祀される3名ですが、ここまでが表向きの話でして。
この話の裏には、策略がありました。
薩摩商船砲撃犯人は、実のところ不明でした。そこで久坂ら、藩の指導部は、薩摩を非難し、長州に同情を集める、一石二鳥の妙案を思いつきます。
藩主導の下、【命を捨てる】ということは伏せられたまま、「首を晒すための」実行部隊が集められました。
水野が名乗り出て、1人では足りないため山本も説得。
「この首を大阪に晒して来んさい」
そう命を受けた2人は、大阪に向かいます。
そして首を晒した2人が帰ろうとすると、おもむろにその足を止められるのです。
「ここで腹を切りんさい」
藩の非情な命令に対し、水野と山本は驚き逃れようとしますが、追いかけられて出来ないと悟り、腹を切りました。
山本はなかなか死のうとしないため、無理矢理介錯、つまりは殺害されました。
この策略は、久坂の読み通り当たりました。
「なんちゅうこっちゃ、薩摩は勝手に密貿易しとったんや!」
「穢らわしい夷狄相手に金儲けかいな、えげつないわ〜」
「それに引き換え、長州のお侍さんは、たいしたもんやな。正義のために腹を切る。これぞ義士やで!」
大阪の人々は、薩摩藩の卑劣さに怒り、上関三士と長州藩に同情を寄せたのです。切腹現場には、忠臣の遺徳を偲び、民衆が押し寄せました。
かように久坂はじめ長州藩は、人心掌握術に長けておりました。ゆえに京都でも大阪でも大人気だったのです。
長州としても、この一件で大衆の心を掴んだことを確信したのでしょう。
この時期、島津久光殺害予告を大阪で配布しました。
しかし偉いのは、殺害予告された久光。
後世の作品では【短気・狭量・冷酷・愚昧】と散々な評価を受けがちな彼ですが、こうした挑発にぐっとこらえる器量を持ち合わせていたのです。
本当に悪評通りの性格ならば、ガチギレしていてもおかしくはないところ。
一方、久坂は、純粋過ぎて命を落とした青年志士というイメージがあります。
それだけが、彼の本質ではありません。
マキャベリズムも持ち合わせ、時に冷酷に振る舞う。そして適切に人々の心を引きつけ、世論を動かす。
そんな智力を、持つ男でした。
続きはまた明日
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲
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2023
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05/15[Mon]
21:48人肌密着本日もご来店で遊んで下さった
仲良し様ありがとうございました
あんな体勢であんなコトすごく興奮しちゃいました
感じてる表情も見れて
濃厚で幸せな時間でした
密着していちゃいちゃ嬉しかったぁ
人肌が大好き
最近は暑くなってきたから
エアコンをかけてくれている事が
多いのですが、
エアコンの風でちょっと寒い中、
密着して肌と肌を重ねて、
こねくり回す(笑)のが
すごく大好きなんです
アレすごく気持ちよくないですか?
是非またお誘いの時は
エアコン付けて待っててくれたら
嬉しいです
明日は12時〜16時半
出勤予定となっております
ご予約、お誘いお待ちしておりますね
本日は本当に本当に
ありがとうございました
ニューヒロシマ
美玲
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2023
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05/15[Mon]
10:14車でぐるぐる……
おはようございます♪
本日も元気に出勤致しました
駐車場が停めれなくて
ぐるぐる……
やっと停めれました(*´д`*)ハァハァ
今週の出勤予定です
月曜日10時〜16時半
火曜日12時〜16時半
水曜日10時〜16時半
後半は交通状況によっては
出勤出来るかもなので
またお知らせします(*´`)
本日もお誘いお待ちしておりますね
ニューヒロシマ
美玲
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2023
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05/13[Sat]
07:18沈む〇〇〇
おはようございます♪
歴史シリーズ
久坂玄瑞編Part23
長州藩では、薩摩への憎悪が募りに募っておりました。
「八月十八日の政変」の件もありますが、理由はそれだけではありません。
攘夷のトップリーダーは、かつて長州藩でした。
ところが薩摩藩が、生麦事件と薩英戦争を起こし、その座を奪ってしまったのです(薩摩側はそんなことを競ったつもりもないでしょうが)。
そんな最中、長州藩は、薩摩藩がイギリスと密貿易をしていることを嗅ぎつけます。
当時は南北戦争の最中であり、イギリスはアメリカから綿花を輸入できなくなっていました。
そこで、薩摩産綿花を買い付けることにしたのです。
「薩摩というさあ悪い連中じゃ。攘夷と言いながら、イギリスと貿易をしちょるじゃないか。化けの皮を剥がしちゃる」
文久3年(1863年)末。長州藩は外国船だと勘違いしたとバレバレの嘘をつき、薩摩船
「長崎丸」を砲撃して撃沈します。
「まさか薩摩の船たぁ思わだった。外国船じゃと思うた。攘夷のつもりじゃった」というわけですね。
この事件で薩摩藩士、28名が死亡しました。
続きはまた明日
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲
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2023
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05/12[Fri]
18:40手取り足取りこんばんわ
今日もお誘いありがとうございます
まだ初めてお会いした人と、
お話ししたり、いちゃいちゃするのは
とても新鮮で緊張もしますが、
様々な方の最近あったことや、
ご意見などを聞くのはすごく楽しいです
まだまだ知らないことばかりなので、
皆様、手取り足取りえっちな事も
歴史の事も(笑)
色々教えてくれたら嬉しいです
明日も12時〜16時半
出勤予定となっております
ご予約、お誘いお待ちしておりますね
本日は本当に本当に
ありがとうございました(*´`)
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
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05/12[Fri]
06:15悪いのは……
おはようございます
歴史シリーズ
久坂玄瑞編Part23
立ち塞がる逆境。
しかし、これでめげるような久坂ではありません。長州側の見解は、こうでした。
「わしらは孝明天皇の叡慮である攘夷を忠実に行っただけじゃ。功こそあれ、罪はない。悪いさあ、陛下をたぶらかせた薩摩と会津じゃ」
彼らはリベンジを誓いました。
積もった恨みを晴らすがごとく、「薩賊」「会奸」と下駄に書いて踏みつけて歩いた者もいたとか。
久坂は、京都で長州藩に同情的な皇族や公卿に協力を打診しました。
金払いがよく、粋な遊びを好み、色街中心に豪遊した長州藩士は、町の人々にも大人気でした。
彼らにすれば、長州藩は憎い異人を追い払う正義の味方です。久坂は、その中心にいる、悲運のイケメンプリンスといったところでしょう。彼らはひそかに長州藩士にエールを送っていました。
とはいえ、いくら町人が長州藩を支持しようと、孝明天皇が動かせなければ無駄なのです。
長州藩では、朝廷に弁明の使者を送ろうとしますが、会津藩の反対により、伏見で止められてしまいます。
追い詰められた中で、久坂は養子に粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)を迎えました。
久坂も文もまだ20代前半で、実子を持つことは望めたでしょう。
しかし、それもその余裕があれば、の話。久坂は、自身の命運を予感していたのかもしれません。
続きはまた明日
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲
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2023
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05/11[Thu]
06:15政変
おはようございます♪
歴史シリーズ
久坂玄瑞編Part22
孝明天皇は、だんだんと焦り始めていました。
身に覚えのない勅令が出されている。
「天皇陛下に逆らうんか!」と、頼んでもいないのに勝手な行動をする者がいる。
なぜこんなことが?
天皇は、悩みました。実は、長州藩と息の合う攘夷過激派の公卿たちが、勅令を出していたのです。
その結果、上洛した将軍家茂が実行不可能な攘夷の約束をさせられたり、孝明天皇の意図だとして外国船砲撃が行われたり、大変な事態に陥っていました。
孝明天皇の深い悩みも知らず、久坂は久留米藩の真木和泉とともに、ある計画を画策していました。
「大和行幸」です。
天皇自ら神武天皇陵、春日社(春日大社)、伊勢神宮に参拝して攘夷祈願を行い、「攘夷親征(攘夷のために天皇自ら戦う)」の機運を盛り上げようという計画でした。
これを受けて、幕府はプレッシャーを感じるはずでした。
天皇自ら出てくる前に攘夷をせねば、政権を譲ることになるかもしれない、そう思うに違いない、と久坂と真木は考えたわけです。
この読みは、正しいと言えます。
幕政の中心にいた松平春嶽は、この時期、こう考えています。
「このままでは政治の命令が幕府と朝廷の二カ所から出ることになってしまう。朝廷から幕府に政権委任してもらうか、幕府が朝廷に政権を返すか選び、命令系統を統一せねばならない。さもなければ国が破綻しかねない!」
春嶽は家茂に政権放棄を迫り、逼塞処分を受けることになります。
もし久坂らの狙い通り大和行幸が実行に移されたら?
幕府も春嶽の言葉通り、そこで政権を返上したかもしれません。しかし、他ならぬ孝明天皇の我慢が限界に達しました。
天皇は、信頼出来る側近の中川宮(久邇宮朝彦親王)に嘆きます。
「誰ぞ、武で君側の奸をのぞく者はおらんだろうか……」
この思いが、長州藩に敵意を抱く薩摩藩と、京都守護職・会津藩に伝わりました。
天皇の側近、長州藩の突出に不快感を抱く諸藩(藩主が京都所司代をつとめた淀藩、徳島藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩)が結託し、アンチ長州包囲網が形成されてゆきます。
こうして文久3年(1863年)8月18日深夜、薩摩と会津の兵に警護された御所から、以下の勅旨が出されました。
・大和行幸の延期
・国事参事、国事寄人の廃止
・三条実美以下攘夷派公卿20名の参内禁止長州藩は、御所堺町御門の警備任務を解かれ、都から撤退するほかありませんでした。
「既に西へ帰るよう決められてしもうた。わしらの藩の勤王の道は、これでもう終わりなんじゃ……」
久坂はそう嘆きました。
長州藩は2千人の兵士と、<a href="https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2023/02/17/111776">三条実美</a>ら失脚した7人の公卿とともに都を追われるほかありません。
勅をふりかざして政局をリードしてきた長州藩が、勅によって追い払われてしまったのです。
彼は、妻の文にこの事件をこう伝えました。
「18日に、いかにも悔しいことだが、悪人どもが禁裏を包囲して、おまけに堺町御門の警備を解いてしもうたんじゃ。けしからん、憎たらしいこと、本当に残念なことじゃ」
この「八月十八日の政変」は、公武合体派が長州藩を追い落とした事件とされていますが、その背後には孝明天皇の意志があったことは重要です。久坂には認められないことだったでしょうが。
どうもこのあたり、久坂はじめ尊王攘夷派は、孝明天皇を意志ある生身の人間というより、自分たちの言動を後押ししてくれる便利な概念として見ていたのではないかな、と思わなくもありません。
続きはまた明日
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
3
05/10[Wed]
20:29〇〇スポット
本日もご予約、お誘いありがとうございました
最初から最後まで
激しくてそして変態で楽しい時間を
皆様と過ごせて感謝感謝です
皆様には癒しや楽しい時間を
味わって頂き、帰り際に
「あ、なんか元気でたな」
と、ふと感じてもらえる
そんなパワースポットのような
存在になれたらと思っています(*´`)皆様やスタッフさんの意見を聞きながら
未熟ながらも頑張っていけたら……と(*´`)
写メ日記ではわたしがどんな子なのか、
ちょっとでも分かって頂けたらと思うので更新も楽しみにしてくださいね
本日は本当に本当に
ありがとうございました(*´ ? `*)ウフフ?
ニューヒロシマ
美玲 -
2023
1
05/10[Wed]
06:15なぜこだわるの?
おはようございます♪
歴史シリーズ再開しました!
GWでちょぴりさぼってました(笑)
久坂玄瑞編Part21
何か気になってきた方がいると思います。
「攘夷でアピールするっていうけど、当時の人は攘夷のデメリットに気づかないの? そんなにノリノリだったの?」
そうではありません。
「攘夷なんて野蛮、最低最悪」
と冷静に考えている人もいました。
「攘夷をダシにして自己アピールをしている」
と喝破している者もいました。
幕臣の江間政発は「幕末の攘夷とは、反対派を叩き潰すための看板である」と回想。
五代友厚は「攘夷なんてしていたら、清やインドのように国が駄目になる」と指摘しております。
当時、会津藩の家老であった山川浩となると、さらに辛辣極まりありません。
「当時の京都では、脱藩浪士が外国人をケダモノ扱いして、やたらとうるさく鎖国攘夷だと叫んでいたけど、そんなものには一つとして確固たる定見なんてない。酷い奴は、元寇の時の神風を期待するオカルトレベルだった」
それが、山川の指摘です。
山川は尊王攘夷派に苦しめられた会津藩士であり、しかも性格的に思った事をズバズバ言うタイプですので、そこは差し引いたほうがよいかもしれませんが。のちに長州藩の盟友となる薩摩藩は、島津斉彬よりさらに前の、斉興の代で攘夷は無理であると悟っておりました。
外国人殺傷事件「生麦事件」の結果、薩英戦争に突入してしまいますが、そのあとは完全に攘夷からは距離を置き、むしろイギリスと手を組んでいます。
確かに戦争で打撃は受けた。
しかし、貿易のチャンスを得たメリットは大きいもので、WIN-WINの関係を築くわけです。
薩摩藩の考え方は合理的です。
たしかに藩のトップであった島津久光は、異母兄の斉彬とは異なり、西洋の文物を好んでいたわけではなく、明治維新後も亡くなるまで髷を結っていたほどです。
そうした好悪の感情と、藩の利益を切り離すことができました。
続きはまた明日
それでは皆様、
今日も元気にいってらっしゃい((ヾ(・д・。)フリフリ
ニューヒロシマ
美玲